本の虫

虫干し読書録

こ ん な 本 を 読 ん で い た 。
吉永みち子『性同一性障害〜性転換の朝(あした)〜』(集英社新書)
この本を読む前の段階での私の認識を説明しておくと、ごく最近になって、性同一性障害が胎児の頃の脳および身体の発達段階で齟齬が生じたことによる先天的なものだと考えられていることを知ったばかり。

それからあれこれと考えて、なるほど脳が自覚している性別を捻じ曲げるよりは(それって洗脳)、社会的、外見的、そして場合によっては肉体そのものの性別を脳味噌に合わせてしまうほうが、合理的っちゃ合理的だなあ、と考えるようになった。生まれるときに間違った器に入っちゃっただけの、本質的には普通の女の人/男の人なんだなあ、と。

とりあえず当面の目標としては、そういう人たちに対して「無知から来る無神経」に相当するような発言をせずにすむようになりたい。結局は当事者でないので、どこまで理解できるか、自信ないけど。むしろ、「分かるよ」などと安易に言ってしまうほうが危険かつ無礼なんじゃないかとも思う。ただ、分からないからと言って、不必要に傷つける側には回りたくないな、最低限のことは押さえておきたいな、というかんじで、そのための入門書としてどうかな、と読んでみたのがこの本。

読んでまず認識を新たにしたのは、性同一性障害の中でも「医療行為」としてのいわゆる性転換を希望する人たちが苦にしている「性別」は、ジェンダー(社会的性別)とは必ずしも関係がないらしい、ということだ。

私はずっと、こういうのって、もし今の社会が男だからしっかりしろとか女だからおとなしくしろとか言われない社会、男がフリルひらひらのお洋服を着ても「男のクセに」とか言われず、女がガサツな行動を取っていても「女のくせに」などと言われない社会だったら、あんまり問題は生じないのかなあ、と漠然と思っていたのだけれど、どうやらそういう単純な問題ではないらしい。もちろん、それで生きやすくなる面はあるだろうけど。

たとえ無人島に漂着して、自分を男/女として扱う他者が周囲に一人もいなくても、それでも自分が女/男であることに苦しんでしまう人たち。「社会的・外見的には希望する性別だけど洋服の下の肉体は生まれたときのまま」と「社会的・外見的には戸籍上の性別としてしか扱ってもらえないけど、他人に見えない部分で肉体には変更が加えられている」の二者択一を迫られたとすれば、精神の安定のためには後者を選んでしまう人たち。そういう人たちが、確実に存在するのだ。これはかなり、衝撃的だった。

その一方で、社会的に希望の性別で認められれば、身体にメスを入れようとは思わない人もいたり、そもそも自己認識上では性別がはっきりしない人もいたり、ものすごく様々な人たちがいて。そういった人たちみんなが生きていきやすい社会って、もしかして、一応脳と身体の性別が一致している、私たちのような人間にとっても、生きていきやすい社会なんじゃないかなあ、ということを改めて考える。つまり、男とか女とかじゃなく、第一に「わたし」として存在することが許される社会。どう考えてもそういうふうにはなっていない現在、せめて私自身は、相手が男だからでも女だからでもなくて「その人」だから好き、と言い切れる人間でありたい。

んーと、いろんなことを一気に考えすぎて、まとまらん。

性同一性障害―性転換の朝(あした) (集英社新書)
性同一性障害―性転換の朝(あした)
〔2000年〕
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 かつて存在した「本の虫茶房」というサイトの1996年から2000年の読書メモと、現行サイト「虫の居所」の2002年までの読書メモを再掲載しています。
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