本の虫

虫干し読書録

こ ん な 本 を 読 ん で い た 。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
この本を買ったのは、書店で手に取ってちょっとぱらぱらめくってみたら、どうやら村上春樹がちょうど『ねじまき鳥クロニクル』を書き終えた直後の対談を収録したものであるらしい、ということが分かったからだ。

あの作品は、惹かれる部分もありながら、どうもよく分からない部分もすごく多くて。いまだに私は、あの3部作をどう受け止めていいのか迷っているのだ。それで、なにかヒントになることが書いてあるかもしれない、と。

で、読み終わってなにかが分かったかというと、結局なにも分かってはいない。ただ、あの本を書き上げたことは村上春樹本人にとっても、一つの転機であったらしいと言うこと、村上自身にも、説明できないなにかがあるらしいことが、書いてあった。

村上 ただ、ぼくのかんじでは、非常に傲慢な言い方に聞こえるかもしれないけれど、『ねじまき鳥クロニクル』という小説がほんとうに理解されるのには、まだ少し時間がかかるのではないかという気がするのです。(中略)というのは、ぼく自身、小説が自分自身より先に行っているかんじがするからなんですよね。いまぼく自身がそのイメージを追いかけている、という感じがある。〔pp.90-92〕

印象に残ったのは、河合隼雄の「ぼくはあれは夫婦のことを描いているすごい作品だ、というふうに読んでいますよ」という一言〔p.97〕。そういう方向からあの作品を見たことは、なかったなあ、と。

それと、もう一つ、非常にインパクトが強かったのが、河合氏が取り組んでいる「箱庭療法」と、「問題の言語化」ということについての、日米の違いの話。

問題が深いところにありすぎると、それを掘り起こして明るみに晒していくことによって、さらにさらに傷ついてしまうことだって、ありうるのだ、と河合氏は言う。

河合 (前略)これはぼくはアメリカ人に強調しているんですが、すべて分析して言語化しないと治らないというのはおかしい。また、言語で分析する方法は、下手をすると傷を深くするときだってあるのです。(中略)完全に分析しようとすることと、言語化しなくても治るということと、その中間的なところに箱庭があるわけです。〔p.36〕

なんていうか。人間って弱いけど強いんだな、と脈絡もなく思った。深く傷つきながらも、自分の抱える問題をすべて外に引きずりだして明確な形を与えることで、救われる人もいる。その一方で、自分のなかの「言ってはならないこと」を決して外に出さず、じっとこらえたまま、言語化しないまま生きていけるようになる人もいる。

河合 (前略)なかには言いたくないことを三年ほども言わないでがんばり抜いて、それで治っていく人もいますよ。〔p.38〕

どちらの強さを選ぶか、というだけのことなのかも、しれない。もし、選ばせてもらえるならば、だけれど。

それは、河合氏のところに「患者」としてやってくる人たちだけではなく、私を含むすべての人たちが、日常的に、選択を迫られている強さなのかもしれない。しかしその、「選ばせてもらえる」ということそのものが、一つの救いであるような気がする。そう、私たちは、どちらかを選んでかまわないのだ。

それから、「物語」の意味みたいな話のとこを読んでて、村上春樹って、どんなに小説中にSFっぽい設定などなどが出てきても、結局は《純文学》の人なんだなあ、とか思いました。なんとなく。純文学とはなにかってことすら、分かってないんだけどさ、私。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
〔文庫版1999年/親本1996年〕
か行(作者名) | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |









http://archive.mushi.pepper.jp/trackback/921308
前の本 | main | 次の本
+ about this blog
 かつて存在した「本の虫茶房」というサイトの1996年から2000年の読書メモと、現行サイト「虫の居所」の2002年までの読書メモを再掲載しています。
 現在では捉え方が変わった本もありますが、感想文は誤字の修正など以外ではほぼ当時のまま。
 今後の実質的な更新はありませんが、コメント、トラックバックは受け付けています。