本の虫

虫干し読書録

こ ん な 本 を 読 ん で い た 。
著者名インデックス(ま行)
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    宮迫千鶴『母という経験 自立から受容へ――少女文学を再読して』(学陽書房女性文庫)
    正直に言うと、古書店の「×冊×円セール」で数合わせのためにピックアップしたもの。そういうきっかけでもないと、ちょっとこの「女性文庫」というレーベルは手に取りにくい(偏見)。

    でも、たとえ数合わせでも全然興味なければ目に付くことさえないわけで。論じられている“少女小説”は、『ハイジ』、『秘密の花園』、『小公女』、『小公子』、『あしながおじさん』、『若草物語』、『ふたりのロッテ』。

    なんか「ああそうそう、こういう場面あったなあ」と懐かしさが押し寄せてきて、単純に楽しんでしまった。こういった“古典”を子供の頃にきちんと押さえてある女の人は、なんとなく「信用できる」と思ってしまう。

    母という経験―自立から受容へ 少女文学を再読して
    〔1995年/親本1991年,平凡社〕
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    松尾由美『ジェンダー城の虜』(ハヤカワ文庫JA)
    女性が働いて男性が家事をする家庭や、同性同士のカップルなど、従来の男女の役割分担から外れた家庭だけを集めた団地内で、団地のオーナーの依頼を受けてやってきた科学者が誘拐される。

    かの有名小説『ゼンダ城の虜』をもじったタイトルだということは分かるんですが、無教養なわたくしはその『ゼンダ〜』を読んだことがないのでした。読んだことあれば、色々もっと楽しめるような仕掛けがあったのかも、と思うとちょっと悔しい。いや、充分楽しく読んだんですが。

    この手のテーマは、むずかしいやね。これは、あんまりガチガチにならんと、人それぞれでええんちゃう? というかんじで、好感持てました。

    ジェンダー城の虜
    〔1996年〕
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    円山夢久『リングテイル〜勝ち戦の君〜』(メディアワークス 電撃文庫)
    魔道師見習いの少女マーニを主役にした異世界ファンタジー。これは、めっけもんでした。かなり好み。世界観がしっかり重厚なわりには、主役が若い女の子ってことで適度に軽みもあって、読みやすい。

    関係ないけどこの著者の人、学習院史学科の大学院卒、現在は元画廊の家で夫と2人暮しのSE、趣味は家事……なんて、オールラウンドでいいなあ。美人だし。

    リングテイル―勝ち戦の君 (電撃文庫)
    〔2000年〕
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    森茉莉『甘い蜜の部屋』(新潮文庫)
    再読。今では、「お嬢様育ちの偏屈なお婆さん」としての姿が垣間見えるエッセイや私小説のほうを好んで読む私ですが、実は初めて読んだ森茉莉作品は、『甘い蜜の部屋』だったのでした。高校生のときですけどね。森茉莉72歳のときに書かれた、初の長編小説。

    百合の花のような体臭をもつ美少女モイラと、おそらくは森茉莉の父親(森鴎外)がモデルであろうと思われるその父・林作との間に存在する濃密で不可侵の空間、その周囲で翻弄される男女たち。

    約10年ぶりに読み返してみたわけですが、いやはや、やっぱ、濃い濃い。笑っちゃうほど濃密。入り込んで読んでる分には、すごく酔えるんですよ。ただ、ふと素に戻る瞬間があると、森茉莉自身のナルシストぶりと小説がダブってしまったりして。エッセイのほうでは、森茉莉本人が自らのナルシストぶりを笑い飛ばす視点があるだけに。

    現実の茉莉には両親揃ってたし、弟や妹もいたわけですが、この本の中では、母親はすでに亡く、モイラは一人娘として父の愛を独占している、というのがなあ。なまじっか茉莉自身の個人情報を知ってしまっただけに、昔読んだときよりも、すごく痛々しいかんじとふてぶてしいかんじを同時に受けた。

    病み上がりで顔がむくんで下膨れになっていても、転んで頬に傷があっても、それが一層「憎らしいほどに可哀いい」という描写につながってしまうような、そんなどこか小動物めいた感情の希薄な女の存在を、小説の中とはいえ、どこまで容認できるか……。読者の側にも、「読む技術」が必要な作品なのだよ。多分。

    森茉莉には、読者にその技術を要求するだけの権利があるのだ。

    甘い蜜の部屋 (ちくま文庫)
    甘い蜜の部屋 (ちくま文庫)
    〔ちくま文庫版1996年/親本1975年,新潮社〕
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    宮脇孝雄『翻訳家の書斎〜〈想像力〉が働く仕事場〜 』(研究社出版)
    深町眞理子『翻訳者の仕事部屋』と同時期に読みました。こちらは、ジョン・ダニングの古本屋シリーズ等の翻訳をなさっている、やはり有名な文芸翻訳家の本。翻訳家の仕事について語るとともに、あちらこちらで発表された、なんだかちょっと「?」な和訳文を引用して、解説や試訳を加えたもの。作品名や翻訳者名を明記していない分、かの有名な「欠陥翻訳時評」(別宮貞徳)よりは口当たりソフトかも。

    深町さんの本では文芸系とビジネス系の共通点を強く意識したのに対して、こちらでは、相違点が印象深かった。たとえば、引用されている「誤訳」の中で、私には第1印象として「構文把握が甘いために英文に書かれていることを素直に額面通り受け取れていない」ことが原因と感じられたものについて、本書中では「英文に書いてある以上のことを汲み取るだけの想像力がない、背景知識がない」がゆえの誤訳とコメントされていたりするのが、読んでて居心地悪いと同時に、興味深かった。アプローチの仕方が、正反対なんだな、と(って、他のビジネス系の人たちのことは分かりませんが)。

    その反面、深町さんが矛盾点をついて理詰め的にやっていると説明する作業と、宮脇さんが「想像力の働き」という言葉で表現している作業は、実質的には同じものなのではないかとも思ったり。一見、 2つは反対の作業を指してるみたいに聞こえるけど、結局行き着く先は、同じなのだ、多分。

    もう1つ、「翻訳者」と「翻訳家」という2つの言葉の響きの違いについても、考えこんでしまった。2冊の本のタイトルが、すごく似ているだけに。深町さんの本の中には「自分で自分のことを翻訳家というなんておこがましくて」というようなくだりがあったけれど、実際、文芸系の人たちの感覚って、どうなんだろう? しっかり自分で「翻訳家」と名乗っている人のほうが多いようなイメージありますが。ビジネス系だと、どんな大御所でもやっぱ自称で「翻訳家」って言われると、けっこう違和感がある(少なくとも、個人的には)。その一方で、雑誌なんか見てると、「あなたも実務翻訳家になれる!」みたいな某社の通信講座の宣伝が載ってたりもしますが。

    翻訳家の書斎―「想像力」が働く仕事場
    翻訳家の書斎―「想像力」が働く仕事場
    〔1998年〕
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    宮沢章夫『牛への道』(新潮文庫)
    エッセイ集。虚心坦懐な面白可笑しさ、とでもいいますか。淡々とまじめな文体でしっかり笑いを誘ってくれて、「いいなあ」と思いました。おしつけがましさがない。自然に不自然なのが、かっこいい。

    読んでて何度も、じわじわとこみあげて来る笑いをかみ殺さなくてはなりませんでした(電車の中で読んでたからね)。

    でも実はこの人の「虚心坦懐さ」というか「偏りのなさ」っていうのは、密やかな「主張」なのではないか、という気もちょっとした。表立って何かを主張するという野蛮さを捨てて、こんな形で書いているだけで。

    だから読者のほうも、そんな主張をたとえかすかにでも感じたことなど、まるでなかった顔をして、けらけら笑っているのが本当は正しい。何かを言ってしまえば、ただただ野暮ったいだけ。

    そんなかんじの、本。

    ところで私先日、この本に登場する、「正義の味方引越しセンター」のトラックを、目撃してしまいました。2台も。黄色地に、黒い文字で「正義の味方引越しセンター」と書いてありました。いやー、東京って、不思議なところだなあ……。って、わざわざ書くほどのことか?>私。

    牛への道 (新潮文庫)
    牛への道
    〔1997年/親本1994年〕
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    森茉莉『私の美の世界』(新潮文庫)
    「貧乏サヴァラン」、「夢を買う話」、「あなたのイノサン、あなたの悪魔」、「反ヒュウマニズム礼賛」、「ほんものの贅沢」 を収録。

    どうして私は、こんなにも森茉莉の言葉にいちいち共鳴してしまうんでしょうか。もしかして、歳取ったら、森茉莉みたいな婆さんになるんでしょうか。……だったらいいのにな。

    父親に溺愛されたお嬢さんのままで、いつのまにかお婆さんになってしまった森茉莉は、そのことを自分でも知っていながら、決して自分を曲げようとしない。そして傍から見たその滑稽さも、その可愛らしさも、すべて自分で分かってるんだよなー。なんてしたたかで、なのに無邪気。侮れないぜ。怖いものナシだし。他の人間が書いたら、とんでもない名誉毀損では、というほどのことまで、この人の筆にかかると、とんでもなく可愛らしい。なぜだ。

    この人の文章は、突き詰めればすべて同じような幾つかのパターンに収束してしまうのだけれど、それでも良いものは良い。もう、森茉莉パワー炸裂。いくらでも読みたい。やみつき。時々、禁断症状が出てしまうほど、好き。

    しかし、この本の前半部分だけで、「夫と一緒にパリの街を歩いたときの服がデパートの吊るしだった」という記述が3回くらい出てくるのが、結構笑えるぞ。よっぽど、オーダーメイドのドレスでなかったことが自分の美意識に反していて悔しかったんだろうなあ。

    私の美の世界
    〔新潮文庫1984年/親本1968年,新潮社〕
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    宮嶋康彦『だからカバの話』(朝日文庫)
    野生のカバは、時速50キロで走る。野生のカバは、精悍で足が長い。そんなこと、知らなかった。

    日本にいるカバが「おデブ」なのは、走り回るスペースが与えられていないからにすぎないのだ。アフリカの動物であるカバが、雪の降る国の動物園にいることの不自然ささえも、この本を読む前の私はあまり考えたことがなかったのだ。

    1つの動物園に割当てられるカバは、限られている。そんな中で、弊害があることは分かっているのに、どんどんと近親交配が行なわれていく。そんな事実も知らなかった。戦争直後は動物園の人気者だったカバが、今では図体ばかりでかい厄介者扱いされて、タダ同然で売り飛ばされていってる、なんてことも。

    それに、プールさえ与えられず時折ホースで水をかけてもらうだけ、といった飼われ方をしているカバが日本にいるなんてことも、夢にさえ思わなかった。人気動物たちの購入や飼育舎の建設には、億単位のお金が動いているのに。

    動物園って、なんだろう。動物園って、ほんとに必要なんだろうか。人間の手で飼育されるようになってしまった動物を、今更自然に帰すこともできないわけなんだけど。

    でも私、戦争が終わったあと、日本の動物園にカバを入れよう、とカバの輸入に情熱を注ぎ込んだ人がいたことも知らなかったし、戦後最初のカバがお嫁さんをもらったときには、人間たちがパレードをするほど喜んだことも、知らなかった。よその動物園に売られていったカバについていって、そのままそこに居着いてしまうほどカバを愛した飼育係がいるなんてことも知らなかった。

    そしてやっぱり私は、「動物園」って言葉を聞くと、ちょっとわくわくしちゃうんだよ、困ったことに。

    動物園。なんて恐ろしく、様々な矛盾を孕んだ施設なんだろう。多分、問題はカバだけに留まらないのだ。

    この著者の、カバに注ぐ愛に満ちた視線は、ちょっと尋常でないかもしれない。けどその視線から見た「カバによる昭和史」は、限りなく新鮮で、そして切ない。

    だからカバの話 (朝日文庫)
    だからカバの話 (朝日文庫)
    〔1999年(1987年版に加筆)〕
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    武良竜彦『三日月銀次郎が行く』(新潮文庫ファンタジーノベル・シリーズ)
    第1回日本ファンタジーノベル大賞最終候補作品だったらしい。ちなみに、このときの大賞受賞作はあの酒見賢一の『後宮小説』。

    昭和3年の初夏のある朝、迷子になった山羊を捜す宮沢賢治先生は、自分が書いた童話のなかの世界、イートハーボに迷い込んでしまう。そこでの先生は《モリーオ市博物局の十八等管レオーノ・キュースト》なる赤毛の青年に変身していた。キュースト青年としての先生は、自分の童話「ポラーノの広場」の登場人物ミーロとファゼーロに出会う。しかし二人から聞いたモリーオ市の現状は、先生が書いたのとは、いろんなことが少しずつ違っているのだった。

    そんな一見無国籍風な宮澤賢治ワールドがベースの物語の中に、突然乱入してくるのが、三度笠に縦縞カッパを着込み、「おひけーなすって!」などと江戸っ子やくざ言葉を喋る、尻尾が二股に分かれた2匹(2人?)の直立歩行猫。三日月銀次郎と三味線の桃次郎という名の“エレキやなぎ猫”なのだ。もとは清水次郎長の子分で、“エレキやなぎ”からエネルギーを得て昭和の世まで生き続けてきたという。宮沢先生の人柄に惚れ込んだ彼らは、「子分にしておくんなせー!」と先生の後に従うようになる。

    ええとね。楽しいんですよ、これ。すごく。ただ個人的には、宮澤賢治作品の世界を舞台にしているにも関わらず、宮澤賢治の童話を読んで感じるような、透明な危うい繊細さはそれほど感じなかったですね。非常に明快で痛快な冒険譚で、登場人物(登場猫)はイキイキとしていて……というのは、要するに宮澤賢治の童話とは、まったく違う種類の魅力のような気がするわけで。だから、宮澤賢治の童話に出てくる要素があれこれと挿入されていても、作品世界を補強するというよりは、かえってなんだかしっくりしないというか、ぽんっと唐突に出てきた小道具ってかんじ……という印象を少しだけ持ってしまったわけです。(やっぱ、この辺を考えると、完璧に整合性のある世界を作り上げていた『後宮小説』のほうが、審査員受けは良かっただろうなあ、というのが失礼ながら正直なところ。)

    そもそもこの三日月銀次郎って、宮澤賢治の世界に馴染むには、キャラクターとして強烈すぎかも(笑)。なんとなく、神林長平の「敵は海賊」シリーズに出てくる猫型異星人アプロとイメージをダブらせて読んでました。

    しかし、この私の感想は、実は結構筋違いなものなのかもしれない。というのは、多分この作者が書きたかったのは、宮澤賢治の童話世界というよりもむしろ、宮澤賢治という人物の性質とか思想とか生き方とかなのだ。多分、だけどね。これは宮澤作品へのオマージュではなくて、宮澤賢治その人をモデルとしたキャラクター小説なんじゃないかなあ。(あ、この本の主人公は、一応宮澤賢治ではなく、三日月銀次郎であるということになってはいますが。)

    それと、大人としての私はこういう感想を抱いたけれど、実際にはこの物語のターゲットは、どう考えても子供たちでしょう。あえて「宮澤」でなく「宮沢」という表記を選んだことといい(これは穿ちすぎ?)、難しい言葉にはきちんと注釈が入っていることといい。大体にして、前書き自体が、「小さい読者」を対象に書かれた部分と「大人の読者」を対象に書かれた部分に別れているし。

    それで思ったんだけど、この本って、宮澤賢治を知らなかった「小さい読者」の人たちが宮澤賢治を読みはじめるきっかけ、あるいは一応知ってはいてもそれほどハマってはいなかった「小さい読者」が、別の目で宮澤賢治を読み返すきっかけには、なるかもしれない。三日月銀次郎たちの、「宮沢先生」への敬愛ぶりは、けっこうグッとくるものがあります。作者自身の思い入れが出ているんだと思う。そしてまた、これが決して賢治の童話のパロディなんかではなく、あくまでも三日月銀次郎たちが悪徳市会議員デストウパーゴらと戦う痛快な冒険譚なのだということを考えると、下手に先入観持ってしまってる大人よりも、子供のほうがもっと素直にこの物語を楽しめるはずなのだ。

    だからこそ。この作品が、まず児童文学コーナーに並ぶことはないであろう「新潮文庫」という形でしか世に出なかったのは、非常にかわいそうだなあ、と思ったりもする。

    それ以前に、この本すでに絶版なんだけど。嗚呼……。

    三日月銀次郎が行く
    〔1990年〕
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     かつて存在した「本の虫茶房」というサイトの1996年から2000年の読書メモと、現行サイト「虫の居所」の2002年までの読書メモを再掲載しています。
     現在では捉え方が変わった本もありますが、感想文は誤字の修正など以外ではほぼ当時のまま。
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